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更新日:2022年03月01日 16時10分
校区文化財マップは、久留米市内の文化財と埋蔵文化財包蔵地(現地踏査や発掘調査の結果から地中に埋蔵文化財があるとみられる場所)を小学校区ごとに紹介した地図です。表には、地域の歴史や文化財、遺跡の解説を、裏には、地図を掲載しています。ここでは、各校区の文化財マップ(pdfデータ)を掲載しておりますので、印刷して市内散策などにご活用ください。なお、埋蔵文化財包蔵地につきましては、あくまで参考としてお考えください。正確に遺跡の範囲を記載しているものではありません。詳細な調査結果を元に日々更新しておりますので、住宅建設など土地開発を行われる際は、市民文化部文化財保護課の窓口でご確認ください。
鳥飼校区の西側半分は、かつて筑後川の氾濫原でした。その湿地帯に向かって池町川、おこん川、金丸川などの河川が流れ込んでいます。広大な湿地と、それに向かって緩やかに傾斜する低台地には、草木が繁茂し、多くの渡り鳥が立ち寄ったことでしょう。日本書紀には、水沼君(みぬまのきみ)が雄略天皇に雁10羽と養鳥人を献上したことが記されており、鳥飼の名のとおり、多くの鳥を養っていた地域であると考えられています。また、金丸校区には、市指定文化財の雪の聖母堂、南校区には日渡(ひわたし)遺跡などがあります。
安武校区は、筑後川に面しており、古くから筑後川とともに歩んだ人々の足跡が残されています。安武町住吉には、中世安武氏の居城である海津城(かいずじょう)や、肥前と筑後を結ぶ住吉の渡や番所跡などがあります。また、安武町安武本の野瀬塚(のせづか)遺跡は、奈良時代から平安時代にかけての工房跡と考えられる建物跡が40棟以上発見され、市指定史跡となっています。大善寺校区の大善寺南地区遺跡群とともに、古代三潴郡の中核的な機能を持った遺跡と考えられています。
安武校区は、筑後川が有明海に向けて大きく南に蛇行する部分に位置し、古代から幾度となく洪水の被害を受けましたが、同時に、この地に豊かな土壌と水上交通の要としての役割をもたらしました。昭和61年より本格的に始まった圃場整備事業に伴う発掘調査では数多くの遺跡が発見されました。縄文時代、狩りのための落とし穴が多くみつかった庄屋野(しょうやの)遺跡、弥生時代の大集落である塚畑(つかばたけ)遺跡群、奈良時代から平安時代の建物群がみつかった野瀬塚(のせづか)遺跡、多くの墨書土器(ぼくしょどき)が出土した念仏塚(ねんぶつづか)遺跡など、古代の安武一帯を知る重要な手がかりとなりました。鎌倉時代になると、「安武村」の地名が古文書に登場するようになり、戦国時代には、この地域に勢力を張っていた安武氏の居城である「海津城(かいづじょう)」などの名前もみられます。江戸時代には、久留米城と柳河城とを結ぶ柳河往還(やながわおうかん)が整備されました。目安町の一里塚は市内に唯一残る一里塚です。
平安時代に書かれた『和名抄(わみょうしょう)』には、三潴郡の中に荒木郷という村名が記されています。荒木郷の中心地は現在のJR荒木駅の西側一帯であったと考えられており、白口経塚(しらくちきょうづか)遺跡などが確認されています。また、古墳時代の豪族「水沼君(みぬまのきみ)」の一族の墳墓とされる、墳長50メートル規模の二子塚(ふたごづか)古墳が、かつて荒木小学校付近にありましたが、現在は残っていません。しかし、現地で採集された埴輪(はにわ)は、九州の埴輪の移り変わりを調べるために貴重な資料となっています。
広川と筑後川が合流する大善寺校区には、大善寺の地名の由来となった大善寺玉垂宮を中心として多くの文化財があります。弥生時代には、環濠集落である道蔵(どうぞう)遺跡や、墓地である汐入(しおいり)遺跡などがあります。古墳時代には、古代豪族「水沼君(みぬまのきみ)」の墳墓と考えられている御塚(おんづか)・権現塚(ごんげんづか)古墳のような巨大な古墳が造られました。奈良時代には、玉垂宮の西側一帯に三潴郡の役所が造られ、三潴郡の中心地として繁栄しました。
久留米市三潴町は、福岡県の南西部にあり、八女丘陵の最西端に位置します。古くは「水沼(みぬま)の県(あがた)」と呼ばれていたと伝わり、町名の由来となったとされる「水沼君(みぬまのきみ)」は海上交通を担っていた豪族ではないかと考えられています。塚崎(つかざき)や早津崎(はやつざき)など、岬を連想させる地名や、地下に埋もれている牡蠣殻(かきがら)などから、海とのつながりをうかがうことができます。塚崎にある御廟塚貝塚(ごびょうづかかいづか)から銅剣が出土していて、三潴の地に付近一帯を治めていた権力者の存在が推測されます。これを物語るように、町内には弥生時代を中心に多くの遺跡が眠っています。
城島町一帯は、標高4メートル以下の地域が大部分を占め、今から6500年ほど前は海であった地域が多かったと考えられています。その後、筑後川の堆積作用と有明海の干満の差によって広大な干潟が形成されました。弥生時代になると、海と川の便を活かして、朝鮮半島から人たちが移り住み、集落が形成されていきました。平安時代の百科事典『和名抄(わみょうしょう)』にみえる「管綜(つつえ)郷」は、江上付近に比定されています。
城島町の名物に「えつ」という魚がありますが、「えつ」は筑後川下流域と中国およびその沿岸部にしか生息してない魚といわれており、この地域の自然環境をよく表しています。城島中学校でみつかった久保(くぼ)遺跡は、朝鮮半島の技法でつくられた土器が多く出土しています。朝鮮半島から移り住んだ人たちの集落と考えられ、この地域が有明海を通じて海外との交流が密接であったことが窺えます。