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更新日:2021年08月20日 11時57分
古代日本史上最大の内乱とも言われる「筑紫君磐井の乱」で、北部九州の大豪族磐井が滅びた後、その支配下だった地域には、大和朝廷の勢力が力を伸ばします。それから約100年後の7世紀中頃、突如として久留米の地に国家的な軍事・行政施設が建設され、のちの筑後国府へと、受け継がれていきます。磐井の乱から白村江の戦いまでの激動の時代と久留米の様子をご紹介しています。
左の写真は、高良山と筑後川を西から見た写真です。古代の山城である、高良山神籠石(こうらさんこうごいし)や、軍事・行政施設である「筑後国府前身官衙」は、この写真の左奥にあたる、朝倉橘広庭宮を守るために造られたと言われています。朝倉橘広庭宮とは、斉明天皇が朝鮮半島での戦争に備えて宮を移した場所です。斉明天皇はそのときすでに五十歳をすぎており、朝倉に来る前にも伊予国(愛媛県)の道後温泉に滞在しています。筑後川沿いにも温泉は多く、もしかすると斉明天皇も入浴されたかもしれません。ちなみに朝倉市の甘木という地名は、中大兄皇子が、母の斉明天皇の長寿を願って橘(みかんなどのかんきつ類)の木を植えたことから、みかんイコール甘い木ということでついた地名だとも言われています。
平成20年度まで調査した遺跡の中から、最新の情報をご紹介しています。内行花文鏡が出土した日渡遺跡、城島町の上青木北大門遺跡、勾玉が出土した西郷遺跡、筑後国府の「前身官衙」、善導寺境内遺跡、江戸時代の「しおや」とみられる遺構が発見された久留米城下町遺跡などをご紹介しています。
平成17年度の筑後国府跡第210次調査では、ついに、筑後国府が造られる前の軍事施設(筑後国府前身官衙と呼んでいます)の中核となる巨大な建物が発見されました。長さ18メートル、奥行き12.8メートルの掘立柱建物で、東西南北の全面に庇が付く豪壮な建物です。7世紀中頃から後半に建てられたものと考えられ、九州で最大規模の大きさを誇ります。これまで、筑後国府の前の時代にも、何らかの重要な施設がこの付近にあると言われてきましたが、ついにその中心となる建物を発見しました。