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更新日:2022年03月07日 11時38分
久留米市が福岡県南部の中心的な都市になったのはなぜでしょう。筑後川の水運を活かした好立地に、要塞のようにいかめしい役所の建物が作られたのは、今から1300年と少し前の頃でした。それ以来、久留米の地は筑後の国の行政をつかさどる国府という役所が置かれ、筑後地域の中心都市として繁栄してきました。
筑後国は、現在の福岡県南部であり、小郡市、大刀洗町、久留米市、うきは市、大木町、大川市、柳川市、大牟田市、八女市、筑後市、みやま市、広川町にあたります。
筑後国は、古代の10の郡、御原(みはら)郡、御井(みい)郡、山本(やまもと)郡、竹野(たけの)郡、生葉(いくは)郡、三潴(みずま)郡、上陽咩(かみつやめ)郡、下陽咩(しもつやめ)郡、山門(やまと)郡、三毛(みいけ)郡で構成されています。現在の郡名とほとんど変わりません。
筑後川流域の古代の郡のなかで、筑後川をまたいで設置されている郡は、筑後国府がある御井郡だけです。つまり、筑後川を渡る地点として、一番重要な場所であり、筑紫平野の陸路と水路の交差点なので、この場所に国府が置かれたと考えられます。
今で言う県のような行政単位である「国」ができあがったのは、今から1300年ほど前です。そして、それぞれの国に国府という役所が造られました。国府には、数百人の従業員が働き、さらにその家族や、職人などが住んでいたため、当時としては、地域の政治だけでなく、経済や文化のセンター的な役割をになっていました。そのため、国府跡の発掘調査では、さまざな道具や高級品などが出土し、当時の人々の生活や時代背景を考えるための貴重な資料となっています。
左写真1:鉄を溶かす時に使う土器。左写真2:鉄を溶かした時のかす。左写真3:銅を溶かす「るつぼ」と銅の塊。左写真4:漆が付いた土器(パレットとして使用)。左写真5:すずり。左写真6:「生葉(いくは)」と書かれた土器。左写真7:「口之嶋人(くちのしまひと)」と書かれた土器。右写真:緑色のきれいな釉薬がかかった香炉(国内産の高級な土器)
筑後国府跡がある合川町、朝妻町、御井町一帯には、今でも国府の名残をあちらこちらに見ることが出来ます。ぜひ散策してみてください。
平成21年度に開催された第1回筑後国府展のパンフレット
平成22年度に開催された第2回筑後国府展のパンフレット
平成24年度に発行された筑後国府通信9
平成23年度に発行された筑後国府通信8