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更新日:2021年08月20日 11時54分
交通の要衝である久留米ならではのテーマです。縄文時代と弥生時代の地域間交流についてご紹介しています。朝鮮半島から九州西岸に広がる縄文時代中期の阿高式土器や、弥生時代前期の擬朝鮮系無文土器などから、原始時代の地域間ネットワークを復元しています。
なぜ他の地域の土器が出土するのでしょうか。土器がひとりでに空を飛んでくるわけではないことだけは確実です。いくつかの原因が考えられますが、そのひとつに、「遠距離恋愛(?)」があげられます。土器はだいたい女性が作っていたという説がありますが、ある女性が他の地域に嫁ぐと、嫁ぎ先でもそれまでの作り方が残って、お姑さんと衝突しながら技術が混ざっていくのかもしれません。また、嫁入り道具として土器を持っていくとか、甕棺を里から取り寄せるという説もあります。
藩都として栄えた久留米の城下町。現在の久留米の町割りはほとんどがその当時に作られたものです。発掘調査によってわかってきた江戸時代の久留米の姿が、ここにあります。
元和7年(1621年)以降、有馬家が久留米城のお殿様だったことは、ご存知の方も多いでしょう。では、その前のお殿様は誰なのでしょう?左の写真は毛利家の副紋である「沢瀉紋(おもだかもん)」が施された瓦です。この瓦とクルス(十字架)がついた瓦が、今の久留米市役所の下から出土しています。実は、この場所にはかつて、キリシタンの教会があったのです。そしてそれを造ったお殿様は、毛利元就の9男である小早川秀包(こばやかわひでかね)です。文武に優れた若武者で、秀吉から、立花宗茂とともに九州のことは任せると言われたほどの猛者でした。しかし関ヶ原の合戦で西軍に味方し、戦後は領地を没収され、その後ほどなくして、毛利領内で若くして病死してしまいました。
平成17年の市町村合併を記念して、旧久留米市と旧四町の「お宝」が一堂に会した展示会です。旧石器時代のナイフ形石器から、江戸時代の東野亭焼までの「久留米代表」の遺物たちが歴史を彩っています。
数あるお宝の中でも、特に面白い時代背景を語ってくれる一品がこれ。古墳時代の豪族水沼君(みぬまのきみ)は、海上交通のわざに優れ、中国の江南地方や、朝鮮半島を船で行き来していたと言われています。当時の大豪族筑紫君磐井とは、おなじ広川を利用するお隣さんで、おそらく水沼君は、筑紫君と行動を共にしていたと思われます。そこで、かの有名な「磐井が新羅から賄賂をもらっていた」という日本書紀の記事と、この写真の新羅土器が結びつくのです。当時水沼君も筑紫君も、大和朝廷とは別の、独自の外交関係をもっており、特に北部九州の豪族は新羅と友好関係にあったのです。しかし百済を支援する大和朝廷と対立し、やがて大規模な内乱へと発展してしまいます。