トップ > 観光魅力・イベント > 文化財・歴史 > 埋蔵文化財 > 「くるめの考古資料展」パンフレットのダウンロード
更新日:2021年10月26日 10時33分
東日本大震災から5年が経ち、平成28年4月には熊本地震が発生しました。久留米市には水縄断層が存在し、地震と無関係ではないことがわかっています。久留米市内に残る地割れや液状化現象は少なくありません。この展示会では『日本書紀』に記された筑紫大地震による痕跡を発掘調査の成果から紹介しています。
第37回くるめの考古資料展では平成20~23年度の速報展を行いました。第40回ではこれに引き続き、平成24年度から平成26年度までに発掘調査を実施した36遺跡、91件の中から、特に注目すべき調査を紹介しています。高三潴遺跡の小銅鐸や隈山古墳群のくちなし玉など希少価値が高いものから、久留米城下町のうち細工町から発見された細工職人の道具まで、久留米市の歴史の様々な顔を伺い知ることができます。
久留米市には多くの弥生時代の遺跡が残されています。これらの遺跡は筑後川と密接に関わっています。第39回くるめの考古資料展では、弥生時代の集落が筑後川や有明海を利用して他地域との交流を活発に行いながら発展していく様子を紹介しています。
久留米の町は、有馬家が治めた久留米藩の中心地として栄えました。久留米市は城下の侍屋敷や城下町を発掘調査しており、当時の侍や町人が使用した大量の遺物が出土しています。城下絵図や、食器、徳利、古銭など様々な遺物を紹介しています。
江戸時代の久留米城下には、多くの飲食店や酒屋がありました。酒屋はリピーターを獲得するために、酒瓶が買えない人たちに屋号の入った瓶を貸し出していました。お客さんはその瓶を酒屋に持っていき、中身の酒を掛売りで購入していました(醤油なども同様)。現代のリサイクルとは動機が異なりますが、結果的には江戸時代のほうが今よりもはるかにエコな時代だったようです。こういったリサイクル徳利は、貧乏徳利と呼ばれています。「福童屋」「くしや」「細工町」など、いろいろな屋号や町名が書かれた徳利が城下の各地で出土しています。
平成20年度から平成23年度までに発掘調査を実施した遺跡102件の中から、特に注目すべき14の遺跡を紹介しています。弥生後期の環濠集落の水分(みずわけ)遺跡や、装飾古墳の下馬場(しもばば)古墳、古墳の長さ103メートルの田主丸大塚(たぬしまるおおつか)古墳、久留米城の外堀と土塁を調査した久留米城外郭(くるめじょうそとぐるわ)遺跡などを紹介しています。
奈良時代から平安時代の役所「筑後国府」からは、「国厨」と書かれた土器が出土しています。古代の役人たちが400名以上も働いていましたが、その職員たちの食事はすべて国厨(こくちゅう)とよばれる厨房で作られていました。おそらく給食費は集めていなかったと思います。うらやましいですね。
久留米市国分町の正福寺遺跡は、縄文時代後期の植物性の網かごが大量に出土しており、全国的にも珍しい貴重な遺跡です。正福寺遺跡の紹介をはじめ、久留米市内の縄文時代について紹介しています。
上津バイパス上津荒木交差点から東へ100メートルほど行くと、バイパスの道路の高さよりも周りの土地のほうが低いことがわかります。周辺には小川が流れており、かつては、湿地帯でした。発掘調査では、かつての河川の底からドングリの貯蔵穴が発見されました。実は久留米市内には、高良山の伏流水を湧き出す泉が何箇所もあり、古くから人々の生活の舞台となっていました。
幕末の久留米藩の時代背景と、久留米城下出土遺物を紹介しています。また、近代のガラス瓶からわかる大量生産時代への変換なども紹介しています。
大河ドラマに頻繁に取り上げられる幕末維新の時代、久留米藩はどうなっていたのでしょう。実はかなりのドラマチックな展開があったのです。ペリー来航後、藩内の改革を主張する真木和泉は、久留米藩を飛び出し、長州藩とともに禁門の変に敗れ自刃します。久留米では今井栄が軍隊の近代化や殖産興業を押し進めます。しかし戊辰戦争前夜の慶応3年、今井の上司、不和美作が暗殺され、今井たち開明派は投獄されました。そして、攘夷派の水野正名が政権をにぎり、急遽倒幕側として、500名の藩兵が関東へ出兵しました。写真の弾丸は、戊辰戦争に従軍した旧可児気跡から発掘された西洋銃の弾丸です。