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更新日:2024年11月21日 16時22分
久留米市が下水処理(げすいしょり)をはじめてから令和4年で50周年を迎(むか)えました。50年のあいだに久留米市の下水道はどう変わっていったのか振(ふ)り返ってみましょう。そして、これからの下水道について考えてみましょう。
日本では、昔から、し尿(にょう)を川にそのまま流したり道に捨てたりせず、農作物(のうさくもつ)の肥料(ひりょう)として使っていたため、下水道はそれほど必要(ひつよう)とされていませんでした。
しかし、明治時代(めいじじだい)に人々が東京などの大きな都市(とし)に集まるようになると、大雨によって家が水に浸(つ)かったり、低地に溜(た)まったままの汚(よご)れた水が原因(げんいん)で、 コレラなどの伝染病(でんせんびょう)が流行(りゅうこう)するようになりました。そこで、日本でも下水道がつくられるようになっていきました。
(写真出典:『目で見る久留米の歴史』より転載)
日本で本格的(ほんかくてき)に下水道の整備(せいび)が進められるようになったのは、第二次世界大戦後(だいにじせかいたいせんご)に産業(さんぎょう)が発展(はってん)し、人々がさらに都会(とかい)に集中(しゅうちゅう)するようになってからです。
産業(さんぎょう)の発展(はってん)により、昭和30年ころから工場などの排水(はいすい)によって川の汚(よご)れがひどくなっていったため、昭和45年に下水道法(げすいどうほう)が改正(かいせい)されました。下水道はまちの中を清潔(せいけつ)にする役割(やくわり)に加えて、川や海の汚染(おせん)を防(ふせ)ぐ「水質保全(すいしつほぜん)」という役割(やくわり)も持つようになったのです。
(写真出典:『目で見る久留米の歴史』より転載)
久留米市では、昭和42年に公共下水道(こうきょうげすいどう)の基本計画(きほんけいかく)がつくられ、国からの認可(にんか)を受けました。
昭和47年には現在の中央浄化(じょうか)センターである津福処理場(つぶくしょりじょう)が稼働(かどう)をはじめ、その後、南部浄化(じょうか)センター、田主丸浄化(じょうか)センターもつくられました。
平成の終わりには、市内の下水道管(かん)の総延長(そうえんちょう)は約1,280キロメートルを超(こ)え、下水道の普及率(ふきゅうりつ)は約82.5%になりました。
(写真(右)出典:『目で見る久留米の歴史』より転載)
法律(ほうりつ)で定(さだ)められた下水道管(かん)の耐用年数(たいようねんすう)は50年といわれています。久留米市の下水道管(かん)のうち、事業(じぎょう)を始めたときから使っている管(かん)は50年を迎えていて、これからも増(ふ)えていきます。 古くなった下水道管(かん)をそのままにしておくと、管(かん)が壊(こわ)れて穴があき、道路が陥没(かんぼつ)するなどの事故(じこ)につながります。 しかし、古くなった管(かん)を一斉(いっせい)に更新(こうしん)するには多(おお)くの費用(ひよう)が必要(ひつよう)になるので、市では計画的(けいかくてき)に対策工事(たいさくこうじ)を進めています。
下水道管(かん)の老朽化(ろうきゅうか)に加(くわ)えて、下水道を維持(いじ)する技術者(ぎじゅつしゃ)の不足(ふそく)が全国的(ぜんこくてき)な問題となっています。 また、下水道を維持(いじ)するための費用(ひよう)もさらに必要(ひつよう)となっていきます。
久留米市では、令和3年に「久留米市上下水道事業経営戦略(くるめしじょうげすいどうじぎょうけいえいせんりゃく)」を策定(さくてい)し、計画的(けいかくてき)な下水道事業(じぎょう)の運営(うんえい)に取り組み始めました。 これからも、より効率的(こうりつてき)で持続可能(じぞくかのう)な下水道事業(じぎょう)の経営(けいえい)をめざしていきます。
下水道の供用開始(きょうようかいし)50周年を記念(きねん)して、長い間にわたり下水道事業に尽力(じんりょく)・貢献(こうけん)いただいている業界団体(ぎょうかいだんたい)や関係会社(かんけいがいしゃ)、地域団体(ちいきだんたい)へ感謝状(かんしゃじょう)を贈呈(ぞうてい)しました。感謝状の贈呈式(ぞうていしき)は、令和4年9月25日(日曜日)に南部浄化(なんぶじょうか)センターで開催(かいさい)された「久留米市上下水道フェア2022」で行われました。
下水道の供用開始(きょうようかいし)50周年を記念(きねん)して、記念(きねん)デザインのマンホール蓋(ふた)を設置(せっち)しました。